「ハチ公博士」こと学芸員の松井圭太さんに聞く。生誕100周年のハチ公と渋谷
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「ハチ公博士」こと学芸員の松井圭太さんに聞く。生誕100周年のハチ公と渋谷

いまや待ち合わせ場所の定番となっている、渋谷駅前のハチ公像。銅像のモデルとなったのは、東京帝国大学農学部(現・東京大学)教授・上野英三郎先生の愛犬である、秋田犬のハチ公です。

今回は、2013年に白根記念渋谷区郷土博物館・文学館で『ハチ公展』を担当し、「ハチ公博士」とも呼ばれる学芸員の松井圭太さんに、渋谷というユニークな街のシンボルとして親しまれてきた、ハチ公の歴史と魅力をうかがいます。

2023年11月に生誕100周年を迎えるハチ公にまつわるお話は後世に伝えていきたいエピソードが数多くありました。ハチ公が生まれた秋田県大館市でも生誕100年をお祝いしてハチ公を世界に広めていくさまざまな取り組みを予定しているようです。

渋谷だけにとどまらず広く愛されるハチ公と、当時の渋谷の様子について紐解いていきます。

松井 圭太 Keita Matsui
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 学芸員

まるで親子のような関係だった、上野先生とハチ公

―松井さんは「ハチ公博士」とも呼ばれ、日本で最もハチ公に詳しいとのことですが、ハチ公について調べるきっかけは何だったのでしょうか?

松井:渋谷区の文化施設で仕事をしていると、月に何回かハチ公についての問い合わせをいただくのですが、これまでハチ公についてのしっかりとした資料や記録はほとんどないため、明確な回答ができなかったんです。そこで、これは一度とことん調べてみようと思いたちました。

最初はどこからどう手を付けていいか分からず困りましたが、わずかな糸口から関係者を探し、聞き取りを行い、そこから何とか次の関係者へとつなげていき、だんだんと情報が集まっていきました。

ただ幸運だと思ったのは、渋谷区の博物館に勤めていることです。博物館開館後は、ハチ公の初公開の写真などを展示すると、「当時のハチ公を見たことがある」という方や、関係者の方が来てくださるのです。これは、ハチ公のことを調べる大きな助けになりました。そうしていくうちにいろんな情報の点がつながって線になっていきました。

ーハチ公はなぜ上野先生のもとへやってきたのですか?

松井:上野先生は大の犬好きで、つねに何匹も犬を飼っていました。また、たいへんな人格者で、教え子たちからもとても慕われていました。

ある日、教え子が、秋田県庁耕地課長に昇進したことから、これまでお世話になった先生へお礼として秋田の名産品を送りたいと申し出ました。するといつか秋田犬を飼いたいと思っていた上野先生は、これを機会に、当時生後2か月だったハチ公を譲り受けたのです。

ですが、ハチ公は、秋田から東京まで運ばれるあいだにすっかり衰弱していたようです。上野先生は、そんなハチ公が心配でしょうがなく、毎日自分のベッドで一緒に寝たり、自分が不在のあいだは書生さんに「よくご飯を食べた」「熱を出した」など、その日ハチ公がどんなふうに過ごしたかという日記をつけさせたりと、大変かわいがり育てていました。

そして、半年ほど経ち、元気になったハチ公は、渋谷の松濤にある上野先生の家から、東京帝国大学農学部がある駒場までの道のりを、毎日一緒に歩いて送り迎えをするようになります。

また、送り迎えをしていたのはハチ公だけではなく、以前から飼われていたポインター種の犬も2匹一緒だったといわれています。ハチ公は先生が大好きで、ハチ公にとって上野先生はお父さんのような存在だったと思います。

そんな毎日を過ごし、1年半ほど経った、1925年(大正14年)5月21日に、上野先生は大学で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまいます。

―ハチ公が上野先生を毎日送り迎えしていたのは、渋谷駅ではないとのことですが、ではなぜハチ公は渋谷駅で待ち続けたのでしょうか。

松井:上野先生は農業土木という学問を作った人で、その講習会を一人で日本全国に出向きおこなうほか、農地改革のために朝鮮半島や中国へ渡ったりと、出張も多かったようです。

そのため、出張の際には渋谷駅を利用していました。上野先生は出張に出ると何日も戻りません。賢かったといわれるハチ公はおそらく、駒場に行かない日は、あるいは先生が何日も家に帰ってこない日は、渋谷駅で待っていれば先生に会えると思っていたのではないかと思います。

実際生前の上野先生が帰宅の日時を家族にも伝えずに出張に出た際に、渋谷駅に戻ってくるとそこにハチ公が待っており、先生は大変喜んだということがあったそうです。

「渋谷にいることがハチの幸せ」。八重子夫人が下した決断とは?

―それからハチ公はどうなってしまうのでしょう?

松井:ほかの家へ預けられることになります。上野先生には、ともにハチ公をかわいがっていたパートナーの八重子さんという夫人がいました。しかし、当時の日本は自由恋愛による結婚が許されない時代。そのため、先生と八重子夫人は籍を入れておらず、相続権のない八重子夫人は、屋敷を去らなければいけなくなりました。

八重子夫人は、神泉の知り合いの家に身を寄せることになりましたが、居候の身で犬を連れていくわけにもいかず、ハチ公を含めた3匹は、八重子夫人の親戚の家へ1匹ずつ預けられました。

そこでの暮らしは、満足に散歩にも連れていってもらえず、充分に餌も与えてもらえないような環境で、やがてハチ公は問題をおこしたり、問題に巻き込まれるなどしていくつかの家を転々とすることになります。

ですが、その数年後、八重子夫人の境遇を知った上野先生の教え子たちが、世田谷に一軒家を買い、八重子夫人にプレゼントしてくれたのです。

―すごいプレゼントですね。どんな経緯があったのですか?

松井:以前、上野先生が生死をさまようほどの大病にかかった際、全国にいる教え子たちが、少しずつお金を出し合い、療養のための別荘を買います。

ですが後日、教え子たちは回復した上野先生から「そんな見返りを求めるために君たちを世話しているわけじゃない」と怒られてしまい、その別荘は受け取ってもらえなかったのです。普段は温厚な上野先生もこのときは断固として拒否しました。

しかし、夫人の窮地に教え子たちはその別荘を売却し、そのお金で一軒家を買うことにします。結果、先生のために集めた資金は先生の最愛の女性である夫人の窮地を救ったのです。

―そしてハチ公は八重子夫人と一緒に暮らせるようになったのですね。

松井:はい。ですが、世田谷で暮らしはじめ少しするとハチ公が長い時間姿を見せないことが増え、夫人が不思議に思っていると知り合いから「渋谷でハチ公を見た」という知らせを受けます。そこで夫人は、「ハチは上野先生に会いたいと思い、あるいはなつかしい渋谷へ帰りたいと思い、渋谷に行っているのだ」と考えます。

八重子夫人は、ハチ公のことが大好きだからこそ、渋谷に帰そうと思い立ちます。

そこで頼りにしたのは、かつて上野家に出入りしていた植木職人の小林菊三郎さんでした。小林さんは、ハチ公が子犬のころから世話をしていたので、ハチ公のことをよくわかっており、ハチ公も懐いていたためです。

この小林さんのもとに行ってからハチ公が亡くなるまでの7年半ほど、ハチ公は毎日、朝と夕方に渋谷駅へ通い続けることになります。

瞬く間にスーパーヒーローとなったハチ公

―渋谷駅に通いはじめた当時から、ハチ公は話題だったのでしょうか?

松井:いえ、はじめは渋谷駅にいるハチ公に対して、まわりの人は野良犬としか思っておらず、誰も関心を持っていませんでした。水を撒いて追い払おうとしたり、顔に落書きをしたりする心ない人もいたそうです。

それを一変させたのが、1932年(昭和7年)10月4日の東京朝日新聞に掲載された記事です。


東京朝日新聞 1932年(昭和7年)10月4日 掲載

松井:この記事が出た翌日から、渋谷駅にはハチ公をひと目見ようという人が殺到し、ハチ公の頭を撫でるため、子どもたちが順番待ちの列を作るほどでした。

さらに、全国の老若男女から、「ハチ公に温かいものでも食べさせてください」という手紙やお金が送られてくるなど、当時の渋谷駅の駅長は、駅の業務よりハチ公に関する対応で手いっぱいだったといわれています。

ハチ公の人気は日に日に高まり、当時渋谷駅前には、「ハチ公丼」「ハチ公せんべい」など、ハチ公関連の食べ物やグッズが溢れるほどになっていました。

―空前のハチ公ブームですね。そこからどんな経緯で銅像がつくられたのでしょう?

松井:ハチ公の美談を後世に受け継ぎたいと考えた人たちが、銅像制作のプロジェクトを立ち上げました。

同じころ、ハチ公が重病にかかってしまい死んでしまうかもしれないという事態が起きます。そのことを新聞が報道すると、「なんとかハチ公が存命のうちに銅像をつくろう」という人々の気運が高まり、大人から子どもまで、銅像制作のために多くの募金が寄せられました。

森永からは「ハチ公チヨコレート」というお菓子まで発売され、売り上げの一部が銅像制作の資金になったそうです。

さらには、2,000人ほどが入る日本青年館を貸し切り、『ハチ公の夕べ』というイベントも開催されたほどです。そこでは、ハチ公に関する浪曲・漫談のほか、児童劇団の少女たちの踊りなどの催し物がおこなわれ、その入場料が全て銅像制作資金となりました。

多くの人々の働きにより、1934年(昭和9年)4月21日にハチ公像は完成し、除幕式がとりおこなわれました。ハチ公自身もこの除幕式に参加したそうです。


資料提供:森永製菓株式会社

翌1935年(昭和10年)3月8日に、ハチ公は一生を終えました。ハチ公は、渋谷川に架かる稲荷橋付近の路地(現在の渋谷警察付近)でひっそりと死んでいたそうです。その日の夕方にはハチ公が亡くなったことが一般の人に伝えられ、銅像前には2,000人もの人が集まり、ハチ公の死を悼んだといわれています。

しかしその後、第二次世界大戦の金属類回収令※にともない、ハチ公像は回収されて溶かされてしまいます。

※緊迫した国際情勢に対処し、重要資源の自給体制を確立するためとして官民所有の金属が回収されました。

親子二代の彫刻家の魂がここに。銅像の再建秘話

―現在あるハチ公像は二代目なんですね。戦後すぐに再建されたのでしょうか?

松井:初代の銅像を制作した安藤(あんどう)照(てる)さんの息子で、彫刻家の安藤(あんどう)士(たけし)さんが再建に名乗りを挙げてくれたのですが、戦後の日本は資源不足のため、銅像の鋳造中に停電が起き作り直しになるなど、再建も一筋縄ではいきませんでした。

もっとも士(たけし)さんが困ったのが、銅像をつくるための銅がないことです。闇市で銅を探しても、やかん一個しか見つからないような状況でした。

そんなとき、庭にあったあるものが士(たけし)さんの目に留まりました。それは、亡くなった父親が制作し帝国美術院章(現・日本芸術院賞)を受賞した「大空に」という銅像です。その像は、父安藤(あんどう)照(てる)の代表作であり、芸術的価値も高く、とても貴重なものでした。しかし、士(たけし)さんはハチ公像をつくるために思い切って、その作品を溶かしてしまうんです。

―そんな出来事があったなんて知りませんでした。

松井:士(たけし)さんは「この銅像は、父親の作品を溶かしてつくった作品だから、父親の魂も込められた親子二代にわたる彫刻家の作品なんだ」とおっしゃっていました。士(たけし)さんは、二代目の銅像を見るたびに「ここには父の作品が生きている」と思うと話されていました。

松井:二代目の銅像は、「平和の象徴」として1948年(昭和23年)8月15日に除幕式が行われました。そのため、みんなにかわいがってほしいという思いを込め、あえて手の届く高さの台座に設置されています。

―たしかに、海外の観光客の方などはハチ公像の前足を触っている人が多いですね。

松井:ハチ公の物語は海外でも有名なので、「よくがんばったね」という感じでしょうか、みんなが触るんです。当初は、ぼこぼことした質感で毛並みを表現していたそうなのですが、みんなが触るので、今は前足のところがすり減ってツルツルになっているんです。

「そのうち穴が空いてしまう」という声もありますが、士(たけし)さんは「穴が空くのはそれだけ愛された証拠。だからどんどん触ってほしい」とおっしゃっていました。

触るとご利益があるというわけではないのに、ここまで触られるのは、ハチ公が人々から親しまれ、愛されているからだと思います。こんな銅像はどこを探してもほかにはないと思います。

―ハチ公が新聞に取り上げられたのも、「渋谷区」が誕生したのも、同じ1932年(昭和7年)10月の出来事で、ともに90年前の出来事なんですね。

松井:それまでの渋谷は、東京市でも外側にあり、あまり知られてはいませんでしたが、「渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町」の三町が合併し「渋谷区」ができた年にハチ公が有名になることで、あのハチ公が通った駅の街として「渋谷」が全国に知れ渡ったのです。

―ハチ公の物語は、なぜここまで人々に愛され続けているのでしょうか?

松井:一番は、犬という身近な存在に共感しやすいからだと思います。ハチ公ファンの方に話をうかがうと、やはり犬を飼った経験がある人が多く、自分の経験と重ねることで多くの人に共感されるのだと思います。

また、ハチ公は「大好きな上野先生に会いたい」という純粋な思いで、ずっと渋谷駅で待っていました。人間でも、亡くなった人と会えないのはわかっているのに、思い出の場所に行ったり、会いたいと思いますよね。家族、恋人、友達など、「親しい誰かに会いたい」という気持ちは、みんなが持っている普遍的な思いです。

だからこそ、多くの人が自らの誰かへの思いと重ね合わせ共感するのだと思います。そのため、ハチ公の物語は、国や時代を超え、多くの人の心を打ち、愛され、語り継がれているのではないでしょうか。


【お知らせ】

松井さんが所属する白根記念渋谷区郷土博物館・文学館では現在「特別展 -関東大震災から100年- 同潤会アパートと渋谷」が開催されています。

松井さんがキュレーションを行った本展は、渋谷の建築史にとって欠かせない「同潤会アパート」の当時の姿をうかがうことができます。初公開となる多数の資料も展示していますので、ぜひ訪れてみてください。

(外部リンク)
「特別展 -関東大震災から100年- 同潤会アパートと渋谷」の詳細はこちら